サマータイム導入に反対する
我が国における今般のサマータイム(夏時間)導入案は、2020 年に開催される東京オリンピック・パラリンピックに向けて開催時期の暑さ対策の一つとして、また低炭素社会の実現に向けて、国会で議論されようとしている。しかしサマータイム導入は、欧州諸国において報告されているように、不眠や昼間の眠気、頭痛、めまい、食欲不振、疲労感、抑うつ気分など数多くの健康被害をもたらす可能性が高い。サマータイムはヒトの健康維持増進にとって極めて不適切であると考えられるので、日本時間生物学会はここにサマータイム導入に反対の意見を表明する。
日本時間生物学会は、体内時計を中心とする研究分野をカバーする学術団体である。時間と共に変化する生命現象、なかでも規則的に繰り返して変化する生命現象の仕組み(体内時計)と環境変動との相互作用や、体内時計が関連する様々な生理現象、さらには体内時計の異常がもたらす生命現象などについて、バクテリアからヒトまで広い生物種を対象とする研究者からなる。サマータイム導入には制度的・技術的な問題点も挙げられているが、本文書では日本時間生物学会の学術的専門性に基づき、サマータイム導入に反対する理由をまとめた。
サマータイム制度とは、夏を中心にした一定の期間、標準時から時刻を1時間早める制度で、欧米などで導入している国(あるいは州)がある。今回は2時間も早める制度が提案されている。世界的にみるとサマータイム制度を採用している国は減少する傾向にあり、2018年9月には EU委員会がサマータイム制廃止を結論したというニュースは記憶に新しい。わが国では戦後一時的に導入され、その後は導入が検討されたことはあったが実現していない。
サマータイム制度の導入によるヒトの生活への影響を理解するために、体内時計の機能とその特徴をまず記したい。ヒトを含め非常に多くの生物は体内時計をもち、その固有の周期は約 24 時間から少しずれている。そのため、主に環境の明暗(昼夜)サイクルの情報を使って固有の周期を補正して地球の 24 時間サイクルに同調している。ヒトの場合、固有の周期は 24 時間より少し長いので、毎日、朝(夜の終わりの時間帯)の光シグナルを使って体内時計の時刻を早めている。光が体内時計に及ぼす効果は広く生物に共通であり、いま述べたように夜の最後(夜明け)の光は時刻を早め、一方、夜の最初(夕方)の光は体内時計の時刻を遅らせる。深夜まで明るい光環境で過ごすと翌朝に眠気が残るのは、このような、夜更かしの光が体内時計の時刻を後退させる効果として身近に経験することである。生物の体内時計は非常に多くの生理機能を調節しているので、体内時計の時刻調節がうまくできないと、生理機能のバランスが崩れてしまう。例えば欧米(西や東)に海外旅行した時に実感する時差ぼけは、日本の時刻から現地時刻へのずれを体内時計がすぐに修正できないために起こる現象である。時差ぼけは現地の明暗シグナルを積極的に取り込むことにより体内時計をゆっくり現地時間に同調させ、数日をかけて解消できることが多い(個人差が大きいことも知られている)。海外旅行で夜間に眠れない、あるいは朝や夕方に眠くなるのは、睡眠が体内時計と深く関係していることによる。時差ぼけによる睡眠や食欲、便秘など腸の働きの変調は自覚できる生理現象だが、そのほか、多くの自律的な生体機能は私たちが気づかないうちに大きな変調を起こしている。このような体内時計の乱れによる機能変調の原因の多くは、生体のほぼ全ての組織・細胞に時計機能があることに基づいている。体内時計の実体は、全身性の体内時計ネットワークであり、脳の視床下部にある中枢時計がほぼ全ての組織にある体内時計(末梢時計と呼ばれる)を整調している。ここで重要なことは、ヒトの中枢時計は光シグナルで時刻合わせできるが、末梢時計は光によって同調されず、中枢時計を介して間接的に時刻合わせが行われるという点である。末梢時計は光シグナルに不応である一方、それぞれの目的に応じたシグナルに同調する。例えば肝臓など消化器官系の末梢時計は食事(の栄養素成分やタイミング)によって時刻合わせが行われる。つまり、体内時計ネットワークが正常に作動するためには、光による中枢時計の時刻合わせと食事・運動・社会的スケジュールなどによる末梢時計の時刻合わせがうまく同調することが必要である。これが崩れた状況は内的脱同調と呼ばれ、不眠や昼間の眠気、頭痛、めまい、食欲不振、疲労感、抑うつ気分などが生じる。時差ぼけに似た症状は、交代勤務など生活パターンが頻繁に変化する場合にも認められ、やはり体内時計と生活時間の不一致による内的脱同調が原因である。
これら体内時計の特徴を念頭においてサマータイム制度の影響を考える必要がある。サマータイムは第一次世界大戦中に欧州で導入され始めたが、ヒトに様々な影響を及ぼすことが1970 年代から数多く報告され、睡眠時間の短縮や睡眠効率の低下を中心に、認知機能の低下やうつ病の受診率増加など多岐にわたる。直接的な因果関係をヒトで証明することは難しいが、上記の体内時計の特徴を考慮すると、容易に説明できることが多い。例えば、今回のサマータイム導入の議論においては夏に夜明けが早まることに焦点が当てられているが、同時に日没は遅くなることに注意しなくてはいけない。夏至(6月21日頃)を中心に日照時間は朝方と夕方の両方向に延びているにもかかわらず、朝の日照開始時刻だけに合わせて時刻を2時間早めると、午後から夕方の光の効果に大きな違いを生じることになる。 提案されているサマータイム制度では東京の日の入りは夏至で午後9時になる。すでに記したように一般的に、夕方(夜の最初の時間帯)に浴びる光は体内時計を遅らせる効果を持つので、サマータイムが導入されると、通常よりもより多くの光を夜の最初の時間帯に浴びるため、体内時計の時刻はより遅れる。ヒトは朝の光により 24 時間より長い固有周期を短縮して時刻を調節しているが、夕方から夜の日照はこれとは逆の効果を示し、時刻を遅らせる。この効果がヒトの入眠を遅らせ、その結果として睡眠時間の短縮や睡眠効率の低下をもたらしたと考えるのは極めて妥当といえる。サマータイムの提案において 労働後の余暇の活用が謳われているが、現在の生活では睡眠に入るまでの準備に充てられている時間帯にも社会生活の中で光を受けることになる。サマータイム制度による余暇の恩恵は、睡眠時間の短縮という犠牲のうえに成り立つ可能性が高い。また、最近の疫学研究から日本人の睡眠時間は冬よりも夏が短く、夜型になることが示されていることから、夏季のサマータイム導入は睡眠時間の不足につながる可能性がある。睡眠不足による昼間の眠気や注意力の低下などは、学童から子育て世代や働き盛りまで広い世代に想像以上のマイナス効果をもたらすと考えられる。また、午後9時まで明るいという生活は、これまで日本が経験したことのない光環境であり、食事を含めた社会生活にも強い影響を与えるであろう。肝臓の末梢時計の時刻が食事のタイミングにより調節されることは記した通りだが、サマータイムにより夕食が遅い時間帯にシフトすると、肝臓など消化器官系の末梢時計が中枢時計の支配から逸脱する可能性も高くなり、内的脱同調の一つの要素となり得る。
ここまで、サマータイムの導入期間(数ヶ月)のあいだに恒常的に起こる生理現象を中心に記したが、サマータイムへの移行時期、たとえばサマータイム移行1週間以内には心筋梗塞の発症が増加することが報告されている。このようにサマータイムには、導入時期にみられる一過的な効果と、導入期間全般にみられる恒常的な効果があり、いずれも重篤な健康被害に至ることを記したい。
まとめ
サマータイム制度を考える時、ヒトが強い体内時計をもつことを忘れてはいけない。生物に広く保存されている体内時計は、夕方の光を浴びることによって時刻が遅れるという共通の性質を持つ。したがって、固有の周期が24 時間より長いヒトはサマータイムにより 24 時間サイクルの地球環境に同調することが困難になり、内的脱同調が引き起こされる可能性がある。その結果として、欧州諸国において報告されているのと同様、日本においても、不眠や昼間の眠気、頭痛、めまい、食欲不振、疲労感、抑うつ気分など多くの不調が強く現れる可能性が高い。我が国の社会生活の特徴を鑑み、サマータイム制度を導入することは日本に住むヒトの健康の維持増進にとって極めて不適切であると考え、日本時間生物学会はここにサマータイム導入に反対の意見を表明するものである。
平成30年10月10日
日本時間生物学会
理事長 深田 吉孝 (東京大学大学院理学系研究科 教授)